「助けられる側」を選ぶという意図 〜炊き出しに並ぶイエスの絵から〜

Christ of the Breadlines (by Fritz Eichenberg)

炊き出しの行列に並ぶイエス・キリスト(Christ of the Breadlines by Fritz Eichenberg)

炊き出しの行列に並ぶイエス・キリスト

上の絵画をご覧ください。
こちらは「炊き出しの行列に並ぶイエス」と呼ばれる作品です。
ある日本人の牧師さんの書籍ではこのように解説されていました。

「イエス・キリストが貧しい人々と共に炊き出しの列に並び、食糧を与えられているのを待っている」という情景である。
イエス・キリストがこの世で神聖な行いを自ら行うのではなく、
人々が神聖な行いを起こす機会を作るために存在している。
すなわち、神聖な行い(炊き出しという慈善行為)を人々に起こさせるために、
神聖な存在(イエス・キリスト)はあえて弱者や貧しい存在としてこの世に現れている、
この絵画はそれを伝えている。

というように解説されていました。
(その書籍は手元になくタイトルも忘れたので正確な引用はできません。
またこの絵画の作家本人の制作意図も知りません。)

「助けられる側」でいることを選んでいる人たち

これと似たような在り方を、私はヒーリングセッションの中で何度か見たことがあります。
ヒーリングセッションではその人がその現実をつくっている深い部分での意図・目的を探っていきます。(例えばシータヒーリングなど)

「何をやっても失敗してしまう」
「仕事場でみんなの足を引っ張ってしまう」
「自分一人ではちゃんとできない」

こういった悩みの意図・目的を探っていくと

「自分を助けることで、周りの人が鍛えられる」
「自分が悪い状況を作ることで、みんなに団結・協調が生まれる」

という思いに出くわすことがあります。
「深いところではトラブルメーカーとして人類に貢献しようとしている」ということです。

例えると、
のび太君が怠惰で臆病だからこそ、ドラえもんという作品が成立します。
バイキンマンが悪さをするからこそ、アンパンマンに活躍の場が生まれます。
悪やネガティブな状況が存在するから、そこに物語・ドラマが生まれ、
物語・ドラマから善・美徳・真実といったものをわかりやすく学ぶことができます。

このような“意図”は無意識の領域で形成されていることが多く、本人も気づいていない場合がほとんどです。
(もちろんこういったお悩みの方の全ての人にあてはまる、という訳ではありません)

その役割を選び続けるのか?

現実はその人自身が創り出している、という視点に立つと
それはネガティブな状況・大変な状況から学ぼうとする人たちが共同創造するドラマ、
そこに参加する人たちにとってWin-Winなのです。

どんな役割も、どんな状況も、理由・目的があってうまれてきます。
それを理解することが、新たな人生への一歩となるかもしれません。